July 6, 2009

不日常

僕がとても好きな(あるいは、嫌いなるべき)文章を書くブロガーさんと、先日、会ってお酒を飲み交した。

彼は思ったよりも、気さくな人だった。僕はかつて、彼のブログで「思ったよりも気さくな人だった、と会った人にはよく言われる」と書いてあるのを読んだことがあったので、僕は彼のことを「気さくな人間」という予想を立てて会った。実際の彼は、その予想よりも、少しだけ気さくな人だった。

実をいうと、全くリアルの交流がなく、完全にネットで知り合った人と会うのはこれが初めてだった。少しの戸惑いを胸に、彼と渋谷で待ち合わせた。一方、彼は友達の8割がネットで知り合った人だというから、僕と会うのはそれほどの驚くことではないのだろう。

最初は「ぎくしゃくしたらどうしよう」とか「どういう自分でいけばいいんだろう」という不安はあったわけだが、 とりあえず明るく挨拶を交し、共通の話題である音楽の話から会話を始めると、その後は概ね滞りなく会話は弾んだように思う。

僕は彼の、人間らしい文章が好きだった。決して飾るでもなく、苦しみながら捻り出される言葉が好きだった。 その文章にはある種の生々しさが感じられた。そこには確かに、人間的な血が通っていた。そして、それは僕の胸にすんなりと入って、ゆっくりと体に溶けた。

僕と会ったことが、彼のブログに綴られていた。僕の好きな文章を書く人が、僕のことを書く、ということはある種の気恥ずかしさがあった。

そこには、僕のことが「快活な声と表情を持つ男性」 と評されていた。快活、カイカツ。どうもこの言葉が僕にうまく馴染まなかった。いや、客観的にはその言葉は馴染んでいるのだろう。だけど、僕自身としてはそんな言葉は馴染まない、と思った。

本当は快活な振りをしているだけなんだ。本当は僕だって自分だけの殻に閉じこもって、本でも読み耽っていたいと思う。でも、そんなことじゃあ生きてはいけない。我々は好むと好まざるにかかわらず、他者との関係性によって成り立っているからだ。

笑顔を振りまいて、愛想のいい振りして、人付き合いをしていくことが、僕の一番の処世術だった。だから、そういうキャラクターをずっと捏造しつづけていた。

かといって、この考えを変えようとは思っていない。これからもその処世術を続け、それをさらに洗練させていこうと思う。僕は芸術家にも、研究者にも、ニートにもならない。サラリーマンになるのだ。

話は戻る。

彼がトイレに行っている間、夕闇をぼんやりと眺めながら、どこからか響く若者の笑い声を、聞くともなく聞いていた。そして、自分と彼が一緒にお酒を飲んでいるというこの事実が、とても不思議に思えて仕方なかった。僕と彼は面識はない。なのに、なんで一緒にお酒を飲んでいるのだろう?インターネットとはつくづく不思議なツールだ。本来、絶対に結びつかないような人と、こうも簡単に結びついてしまうものなのだ。

普段こんなふうに長々と、自分のことを書くことはほとんどない。人に観られるのは随分と恥ずかしいし、抵抗がある。それは、精神的排泄物なのだ。そんなものは残さずに、さっさと水に流してしまいたい。

思ったこと。

やっぱり僕は、彼のように書く場所を転々とするのが一番性に合っているのだと思った。長くやればやるほど、自分の情報が蓄積してしまって、それが返って重みとなってしまい、書く力を弱まらせる。ふぁあ最初からプライベート日記にすればいいじゃん→その通り。だけど、公開してしまう。公開することに意味を見いだしてしまう。何故だろう???

あと、自分は弱い人間だなって強く思った。そして、強い振りをすることに随分と長けている。厄介もんだ。「人は誰しもが弱い」→それは一般論。誰かの「弱さ」なんて僕には計れないのだよ。「弱さ計」もないかぎり。

こうして今日もお酒を飲んでいる。泥沼になんて嵌りたくなぃよ。でも、答えは見つからずにいるんだよ。泥にまみれて一生懸命嗤っている僕がいるょ。